境内案内

特攻勇士之像

特別攻撃隊員として殉国散華された英霊を顕彰し
その鎮魂と 我が国の繁栄を誓い
世界平和の祈りを 末永く語り継ぐため
ここに 茨城県 特攻勇士之像を建立する

平成三十年十月
茨城県特攻勇士之像建設委員会
委員長 幡谷祐一

祭典

茨城県特攻戦没者慰霊祭
10月の第2土曜日
茨城県特攻戦没者慰霊顕彰奉賛会

大東亜戦争記念碑

過くる昭和初期における世界的政治経済大恐慌のさなか 祖国日本の苦難の歴史は昭和六年九月一八日に端を発し 支那事変(昭和十二年七月七日)張鼓峰事件(同十三年七月九日)ノモンハン事件(同十四年五月十二日)を経て ついに昭和十六年十二月八日には米英両大国に対する大東亜戦争宣戦の布告となり その後昭和二十年八月十五日の終戦に至るまで 約十五年にわたる日本民族存亡の命運を賭する肇国以来未曽有の長期大戦争にまで進展するに至った
かくてその戦域は中国全土及び東南アジアの諸域はもとより遥か印度洋 濠北 ニューギニア各地 さらには全太平洋海域にまたがる実に全地球の二分の一に当たる広大な範囲にまで拡大され 四百余万にのぼる我が将兵は 過去数世紀の間西欧先進諸国の隷属下に喘いでいた旧植民地の各地に転戦 終始連合国の圧倒的物量攻勢と対決し
陸に海に空に善戦敢闘 苛烈な敵攻撃を受けて屍山血河の激戦を展開した
その間 我が本土も度重なる敵の無差別空襲爆撃や艦砲射撃を受け なかんずく非人道極まりない原子爆弾投下等により一面の焦土と化し 銃後一般国民の蒙る戦禍も日毎に増大するに立ち至った しかも一億国民の気概は屈することなく なお総力を挙げて徹底抗戦の構えは不動なものがあったにもかかわらず
戦局は必ずしも我に利あらず 最後に本土決戦による皇国興亡の関頭に立ち 折しもソ連の機を窺っての不法参戦 大挙侵入に遭うなど 諸般の大勢の赴くところ 遂に聖断によって ポツダム共同宣言受諾の止むなきに至り 終戦の大詔を拝するに及び 一億国民号泣の涙と共にこの長期にわたる大戦の幕は閉じられた この戦いに全国二百五十万有余の同胞の尊い生命が失われ 茨城健児も精悍無比 この国家家危急のの秋に当たり終始伝統たる不抜の闘魂を遺憾なく発揮したが 五万三千五百余名の軍人軍属を始め 四千八百余名の内地外地における婦女子を含む被災死没者を合わせ五万八千四百余名の県民が国難に殉じたのである これらの人々の鮮血に塗れた最後の姿は 今にして想いおこすだに惨烈悲痛の極みである
終戦このかた四十年 わが国民は「終戦の詔書」の示されたところに従い 敗戦の汚名を甘受し 堪え難きを堪え 忍び難きをよく忍んで今日の国家隆盛の姿をみるに至ったのであるが われわれ県民も同様 筆舌を尽くし難い数々の屈辱と苦渋を乗り超え 刻苦勉励によりこの経済復興と繁栄とをもたらし得たのである ここに及んで往時を顧みれば これひとえに今は亡き諸英霊の献身と御加護の賜と衷心からの感謝の誠を捧げたい
さらにまた 長い戦乱の陣痛ののち かつてのアジアを始めとする全世界の植民地が次々に解放され
新たなる希望に満ちた民族独立の雄叫びが聞かれるとき この西欧列強と伍し 日本がよく明治開国以来アジアにおいて唯一の栄光ある独立国家として その栄誉と道統を守り抜いた日清日露の両戦役と同様 この度の戦いは日本民族が自存自衛とアジア植民地解放の宿命的使命を果した「聖戦」であり 世界人類文化史上に残した燦燦たる足跡は永く後世に伝承せられることを確信する
よって時あたかも今上陛下御在位六十年の千載一遇のこの年に当たり 聖寿のいや栄えまさんことと 祖国日本の永遠の伸展並びに世界恒久平和を祈念しつつこの碑を建立し 以て諸霊の功績をとこしえに顕彰するものである

昭和六十一年八月十五日
茨城県大東亜戦争記念碑建立発起人会

北征記功碑

陸軍中将大勲位功四級載仁親王篆額
我が邦の威武、四表に烜耀たるや尚し。弘安の役、元寇を一挙に殲す者は、神に軫憂祈神の亀山上皇有り、下に勇断斬使の北条時宗有るを以てなり。
三十七八年の役、俄軍を百戦に称する者は、上に叡聖神武の英主有り、下に輔弼贊襄の良臣有るを以てなり。
将士の忠烈義烈に至りて、則ち古今豈逕庭有らんや。但し其の兵械の精、戦畧の妙は、則ち日を同じくして語るべからざる者有り。且つ元寇は十萬を出ず、俄軍は則ち百萬を過ぐ。故に戦大にして功も亦偉なること、決して弘安の比に非ざるなり。
彼は宇内の強大国を以て一母五乳の意図を懐き、満韓を侵蝕し、以て東洋の平和を擾さんと欲す。我安んぞ其の亡状を責めざるを得ん。是に於て王師海を絶り以て掃蕩を期す。
海軍は則ち敵艦を旅順港外に撃破し、死士をして船を沈め港口を壅せしむ。又浦塩艦隊を蔚山の洋に摧殘し、終に波羅斯艦隊を日本海に邀撃し、之を殄滅す。海上権は全く我に帰す。
陸軍は則ち先づ鴨緑江の険を奪ひ、普蘭店、王家屯の要を扼へ、鳳凰、摩天嶺、南山、岫巗、柝木、遼陽、旅順の諸城砦を抜き、遂に奉天を破り、以て敵を北満州に駆逐する有り。
海陸大小数百戦、奇勛偉績は天地を震撼し、鹵獲俘虜の夥しきこと勝げて紀するべからず。
我が縣の従軍する者、将士合はせて数萬人、海に陸に勇戦奮闘し、以て常総男子の面目を顕揚し、皇国軍人の精華を発揮す。而して戦死病没する者千九百余人、其の死は殊にすと雖も忠義の鬼たるは、則ち一なり。
今や和成り、事平なり。余郷神と胥ひ謀り、大に弔祭を脩し、且つ碑を建て戦況を略叙し、以て之を普及に傳へん。
顧みて邦人の談元寇の事に及べば、草野安達等の虜艦を斫つの壮烈を稱せざるは無く、以て武夫の亀鑑と為す。
後の今を視ること猶今の昔を視るがごとく、則ち斯の碑を讀む者、必ず應に感奮する所有り、以て倍我が邦の威武を宣揚すべきあり。

明治三十九年三月
茨城縣知事正四位勲三等寺原長輝撰并書

解説

この碑は明治三十九年(一九〇六年)二月則ち日露戦争(一九〇四年から一九〇五年)の直後、茨城県内の戦死、戦傷者千数百名の慰霊祭を行い、碑を建て戦況を記し、その功績を永久に伝えるため県で建てたものであります。
碑文の概要は次の通りです。
弘安の役(一二七四年)では元軍を一挙に全滅した。日露戦争では海陸大小数百の戦いに勝ち世界を震撼させた。
これは上に神のように賢い天皇陛下がおわしまし、下には善良な国民がおり、将士の忠勇義烈の心がすぐれていたからである。
元寇は十万以下の兵力であったが、ロシア軍は百万以上で戦も大きく偉大な功績を挙げ、弘安の役の比ではなかった。
茨城県の従軍軍人は数万人海に陸に勇戦奮闘し、茨城男子の面目をあげ、皇国軍人の精華を発揮したが戦死、戦病死者千数百人その死にかたは違うが忠義の塊である。
この碑を読む人は必ず感奮して我が国の権威と力を大いにあげるだろう。

丁丑殉節碑

従五位 人見 寧 書

碑 陰
明治十年春西南之乱、吾輩奉勅従軍始撃賊干熊本県下至九月二十四日奏捷干鹿児島県城山戦数十合、死者亦衆、吾輩幸獲凱旋之建碑於常盤邨鎮霊社請県令人見君題字、以弔慰死者之魂。

読み下し文

明治十年春西南の乱、吾輩勅を奉じ従軍し始に賊を熊本県下に撃つ九月二十四日に至り捷を鹿児島県城山に奏す 戦ひ数十合 死者亦 衆、吾輩幸ひ凱旋を獲(え) 乃(すなわち) 碑を常盤邨鎮霊社に建つ 県令人見君に題字を請ひ、以て死者の魂を弔慰す

解説

この碑は明治十年(一八七七年)西南の役に従軍し、凱旋した者が常盤邨(村)鎮霊社に、死者の魂を弔慰するため建てたものであります。
碑文は碑陰の上段に刻まれてあり中段・下段には従軍して凱旋し、この碑の建立者と思われる六十二名の氏名が刻まれてあります。
碑文は次のとおりであります。
明治十年春に勅命により従軍した。始めに賊を熊本県下に撃った。
九月二十四日に至り鹿児島県城山で勝利を得たが戦いは数十面に及び戦死者も多かった。私たちは幸い凱旋することができた。
直ちに常盤邨(村)の鎮霊社に碑を建て、県令人見君に題字を願い死者の魂を弔い慰めるものである。

征清記念碑

陸軍大将大勲位功二級彰仁親王題額
我神州建國以来外征之見干史者𦶩十有餘次遠之 神后三韓近之豊太閤伐朝鮮其功烈冣卓絕古今而輓近 皇師討清之役實為二役以来之大事矣已起甲数十萬而用兵千里外陸抜堅城海奪大艦而訊馘可以築京観也斥地足以廣版圖也其震耀皇威宣揚國光想為如何也其功ケイ軼於豊太閤而其烈實有光干 神后亦可謂古今之大捷也惟其役大故我所喪兵士之数𦶩亦不為少矣今以茨城一県算之其戦而斃敵弾殞於膚鋒及藎瘁而病没者不下数百人之非藎桓桓将士則赳赳
武夫也誰不為國家惜或水戸常磐地素有鎮霊之社祀其嘗至命國事者今兹志士相謀合祀県内之士而死於討清之役者以大修弔祭而又特建一大碑於社側以表彰其忠烈欲使其霊有所憑而其名有所伝為請余撰其文余嘗読国乘夙欽関東古俗特以義勇著及嚮有事干清聞東兵果克重恥軽死実不負古之勇名之知於彼戦勝攻取𦶩冣與有力焉其勲功寧可没哉善乎此挙也余適在任毎観管民帰葬軍士挙郡市輙致哀而今又修祭建碑嗚呼闔縣協力如此其至也亦可謂能体国家待兵士之恩意矣視之太閤征韓之役陣没者無算其屍委原野而不掩其魂彷徨而無所憑之可哀豈其可同日而談焉哉是雖固由昭代之至徳也抑亦見東人好義之所致爾夫此勇也義也今併以表之庶幾使後人聞風而有所激励奮起焉於乎書

明治三十季四月
茨城県知事正五位勲五等江木千之撰
茨城県書記官従五位勲五等渡邉秀書

読み下し文

陸軍大将大勲位功二級彰仁親王篆額
我が神州、建國以来、外征の史見るる者、蓋し十有餘次なり。遠くは 神后三韓を征し、近くは豐太閤朝鮮を伐つ、其の功烈最も古今に卓絶す。而して輓近 皇師討清の役、實に二役以来の大事たるなり。已に甲数十萬を起して、兵を千里の外に用ひ、陸は堅城を抜き海は大鑑を奪ふ。而して訊馘以て京観を築くべきなり。斥地以て版図を廣むるに足るなり。其の皇威を震耀し國光を宣揚するは想ひ如何と為すや。其の功?に豐太閤に軼りてその烈實に神后より光有り。亦古今の大捷と謂ふべきなり。惟ふに其の役大なる故に、我が喪ふ所の兵士の數、蓋し亦少しと為さず。今や、茨城人縣を以て之を算ふるに、其の戦ひて敵弾に斃れ虜鋒に殞し、及び藎瘁して病没せる者、数百人を下らず。是れ藎く桓桓の将士に非ずんば、則ち赳赳の武夫なり。誰か國家の為に惜しまざらんや。水戸の常磐の地には、素より鎮霊の社有りて、其の嘗て命を國事に致せる者を祀る。今兹志士相謀り、縣内の士にして討清の役に死せる者を合祀し、以て大いに弔祭を修し、而して又特に一大碑を社の側に建て、以て其の忠烈を表彰し、其の霊をして憑る所有り、而してその名をして傳はる所有らしめんと欲し、余にその文を撰ばんことを請ふ。余嘗て国乘を読み。夙に関東の古俗、特に義勇を以て著しきを欽ぶ。嚮に清に事有るに及び、東兵果たして克く恥を重んじ、死を軽んじ、實に古の勇名に負かざるを聞く。乃ち彼の戦勝功取に於て蓋し最もあづかって力有るを知る。其の勲功は寧ぞ没すべけにゃ。善きかな此の挙たるや。余適任に在り、毎管民軍士を帰葬し、郡市を挙げて、輙ち哀を致すを観る。而して今亦修祭を為し碑を建つ。嗚呼闔縣協力此の如し。其れ至れるなり。亦能く国家の兵士を待つの恩意を体すると謂ひつべし。之を太閤征韓の役の、陣没する者算ふる無く、其の屍を原野に委ねて掩はず、其の魂は彷徨して之れが憑る所無く、哀むべきを視るに、豈其れ日を同じくして談ずべけんや。是れ固より昭代の至徳に由るなりと雖も、抑も亦東人の義を好むの致す所を見んのみ。夫れ此の勇也、義也、今併せて以て之を表す。庶幾くは、後人をして風を聞きて、激励奮起する所有らんことを。是に於てか書す。

明治三十年四月
茨城県知事正五位勲五等江木千之撰
茨城県書記官従五位勲五等渡邉秀書

㈳日本郷友連盟茨城県支部 建立
(訓読 水戸史学会 但野 正弘記)

解説

この碑は明治三十年四月すなわち日清戦争の直後、水戸常磐神社内鎮霊社の傍に茨城県人で日清戦争に従軍した将士が国の為に壮烈に戦い戦死し又は病に斃れた数百柱を合祀した際、その名誉を後の世の人々に伝えようと県を挙げて慰霊祭を執り行い建立されたものであります。
碑文の概要は下記の通りです。
過去に神功皇后の三韓征伐、豊臣秀吉の朝鮮征伐とあったが、今度の日清戦争はその比ではない大戦果であった。
戦が大きかっただけに、我が軍の損害も多く茨城県だけでも戦死、戦病死者が数百人以上ある。誰か国家のため惜しまないものがあろうか。茨城県人は古来から義勇心が強かったが今度の戦役でも勇名を挙げた。
後世の人もこの話を聞いて奮起することであろう。

平和のねがい

戦友の賦
我が部隊は過ぐる日支事変最中の昭和十三年六月水戸及び朝鮮会寧の工兵隊よち編成、第二十二師団工兵第二十二聯隊として創立し、直ちに中支那に派遣、杭州北端洪宸橋に駐屯し周辺地帯、銭塘江南岸、浙東の各作戦に参加、引続き大東亜戦争に入り昭和十七年の浙 贛作戦により江西省金華に移駐し飛行場、架橋、陣地構築等に従事し昭和十九年南方転進の為上海より海路台湾を経て広東に上陸、湘桂作戦により南寧に進出翌二十年三月明號作戦により印支国境ドンダン要塞攻略戦後仏印に進駐、ハノイを経由ラオスに入り、ビルマ反撃作戦準備の為道路構築中終戦となる。
時に昭和二十年八月十五日酷暑部隊は集結の為ラオスよりタイ国に入り翌二十一年六月バンコックより日本に帰還す。
想えば創立以来幾多の作戦行動中悪疫瘴癘の異国に於て祖国の勝利を信じつゝ散華せし戦友や戦後無事帰還し日本再建に尽くしつゝ不幸物故せる戦友亦多く之を思うとき痛恨極まりなく、その冥福を祈り克つ往時の武勲と栄誉を顕彰するは我々生死を共にした者の責務なりと信じ、善隣友好の国是に徹し不戦の誓い新たに戦友相集い一致協力し部隊発祥の地水戸の茨城県護國神社に建碑し戦友の絆となし永遠に平和をねがうものなり。

昭和六十二年八月九日
工兵第二十二聯隊戦友会

一遊亭跡

桜山は昔から景勝の地で白雲岡とも呼ばれていたが、徳川斉昭は天保年間ここに偕楽園を造ろうとしました。
しかし地形がやや狭いためこの岡には数百株の桜を植え、休息所として一遊亭を建て、好文亭と相対させました。
また北崖下には直径2メートル程の丸い池を掘り、岡の南の水源から鉄管で水を引いて噴水を作り玉竜水または柳陰水と名づけて遊園地としました。

桜宮

御祭神 木花咲耶姫

桜宮が建立するこの桜山は景勝の地であり、古くは「白雲岡」と呼ばれていました。
当初、水戸藩第9代藩主徳川斉昭公(烈公)はこの地に偕楽園を造営しようとしましたが、地形が狭いため、この丘には桜山のゆえんともなる数百の桜を植え、休息所として「一遊亭」を建てて、偕楽園の好文亭と相対させました。
上述のように偕楽園の前景を彩る桜山に桜宮は建立しています。

遺品館

茨城縣護國神社のご祭神の御遺書、御遺品や郷土部隊の歴史、主たる戦場の解説、戦後の海外慰霊巡拝の状況などの展示をしております。
御英霊の御遺徳に思いを馳せ、またその御遺徳を顕彰するために開設されました。

顕勲の塔、留魂の処

戦没者留魂の処

太平洋戦争中さきに戦没者忠霊塔建設の計画あり分骨された遺骨七千七百程を数 終戦後この遺骨は縣に移管され今日に及んだが幸い遺族連合会を中心として県民の間にこの遺骨を納骨して殉国諸士の霊を慰めたいとの議起こり茲に遺家族ならびに一般県民心を協せて資金の造威につとめ漸く終戦後満五年にして英霊の永遠に眠る地を定めることができたこれに併せて県下全戦没者の霊を合祀しこの戦争の悲痛な犠牲を乗り越え全遺族の祈りを込めてこの堂を建設する 願わくば戦争の悲劇を一掃して悠久の平和を打ち立てんため諸霊吾等が郷土を鎮護されんことを

顕勲の塔

この塔は、日清の役から太平洋戦争までの幾多の戦いにおいて、国のため散華された県下の五万八千余柱の英霊を慰め、その遺勲を後世に伝えようと県のはからいにより、全遺族の祈りをこめて建てられたものであります。なお、この塔には、支那事変以来分骨された七、七〇〇余柱の遺骨が納められてあります。 諸霊やすらかにこの地に鎮まり、郷土の平和と繁栄にながく加護を垂れ賜りますよう祈念いたします。   昭和三十八年三月                   題字  茨城県知事   岩上二郎        撰文   財団法人茨城県遺族連合会 理事長  遠山 勇

解説

当局は昭和十二年秋ごろから戦没者慰霊顕彰のため、各都道府県ごとに忠霊塔を建設する方針を示し、それに基づいて茨城県においても水戸連隊区司令部が忠霊塔建設の準備を進めていました。
この忠霊塔には全戦没者の分骨を納める計画で、支那事変の当初から戦地より遺骨伝達の際遺族の了解を得て分骨し、水戸市祇園寺に保管していました。
この分骨は、水戸において遺骨伝達を行った陸軍関係者で、終戦までに七、七〇〇余柱となっています。
終戦後、遺骨は連隊区司令部から茨城地方世話部を経て県世話課に引き継がれました。
昭和二十五年、茨城県遺族連合会により水戸市堀町の旧陸軍墓地跡に納骨堂「戦没者留魂の処」が建設され、県から移管された遺骨および県下の全戦没者の名簿を安置し、竣工式が行われました。式典は神式、仏式、キリスト教式の三通りで行われております。
昭和三十五年、防湿の欠陥、交通の不便などの理由により、茨城縣護國神社内に「顕勲の塔」が建立された。この塔には支那事変以来分骨された七、七〇〇余柱の遺骨が納められました。
毎年秋には遺族連合会主催により、顕勲の塔例祭が行われ、遺族代表をはじめ関係者多数が参列し、英霊の冥福をお祈りしております。

顕勲の塔例祭  11月2日

参考文献

茨城県終戦処理史

編集 茨城県民生部世話課
発行 茨城県
発行日 昭和四十七年二月二十八日

五十年の歩み

編纂・発行 財団法人茨城県遺族連合会
「五十年記念誌」編集委員会
発行日 平成十年三月三十一日

水戸市遺族会史

編集 水戸市遺族会史編集委員会
発行 水戸市遺族会会長 加藤浩一
発行日 平成五年三月三十一日

ペリリュー島守備部隊鎮魂碑

明治七年建軍以来、幾多の国難に出陣して、赫々たる武勲に輝く水戸歩兵第二聯隊は、大東亜戦争酣の昭和十九年三月、北満の守りから、中部太平洋の要衝ペリリュー島に転用され、聯隊長中川州男大佐は、一万有余名の陸海軍諸部隊を併せ指揮して同島に布陣し、敵の信仰に備えて堅固な陣地を構築すると共に、全島民をパラオ本島に避難させた。
九月十五日、四万有余名の米軍機動部隊来襲し、想像を絶する砲爆撃の掩護下海面を圧する敵上陸用船艇群を邀撃して大打撃を与えた。爾後上陸せる敵増援部隊と七十余日に及び、洞窟陣地に拠る死闘を繰り返しつつ、持久の任務を遂行したが、十一月二十四日、遂に戦力尽き、中川部隊長は、軍旗を奉焼し決別電報「サクラ・サクラ」を打電して自決、残る将兵は遊撃戦に転じ悉く悠久の大義に殉じた。
守備部隊の武功は畏くも天聴に達し御嘉賞十一回に及び、陸海軍最高責任者の感状により全軍に布告され、世界戦史に比類なき精強部の名を残した。
ここに、その偉勲を景仰し、英霊の御加護による祖国の平和と繁栄を祈念して、五十年祭を期し、有志相図り、この碑を建立する。

平成五年(一九九三)十一月二十四日
歩二会・ペリリュー島慰霊推進会

祭典

水戸歩兵第二聯隊並びにペリリュー島守備部隊 戦没者合同慰霊祭 11月23日

マヌス島岩上大隊慰霊碑

昭和十八年十一月茨城健児八百有余名は動員下令により応召、宇都宮歩兵第六十六連隊に集合、独立混成歩兵第一連隊(剛四八一九部隊)第二大隊(岩上隊)を編成。
同年十二月横須賀港より戦艦大和に便乗、トラック島に寄港し巡洋艦大淀、能代にて十九年一月一日、ニューアイルランド島カビエンに上陸せるも、ニューアドミラルティ諸島ロスネグロス島に増派を命ぜられ守備につく。同年二月二十九日、米豪連合軍は艦砲射撃と機銃掃射による絨毯爆撃を繰返しながら、同日未明ハイン湾に上陸し来る。
依って我が方は連日連夜反撃を加え、夜襲を決行撃退を図りしが功を奏せず、三月三日夜襲による総攻撃を敢行せるも、如何せん十数倍の兵力と物量戦には敵し難く部隊長以下多数の戦死者を出し、壊滅的打撃を受け玉砕を遂げたり。
かろうじて生存せる者、マヌス本島に転進せるが食糧全く尽き、木の実、草の芽、その他ヘビ、トカゲに至るまで総てを食しながら遂にマラリヤ、アメーバ赤痢等病魔に侵され全滅せり、時に昭和十九年五月三十一日なり。
されどその後になり十六名の九死に一生を得た者判明し其の方々と相謀り昭和五十六年五月マヌス遺族会を結成し昭和五十七年十月現地マヌス島に赴き懇ろな慰霊祭を行った。その時抱き帰りし現地の霊砂と、故人の愛用せる遺品等を此の地に埋葬し、永遠に今は亡き戦没者のご冥福をお祈りし、併せて二度と戦争を繰返すまじきことを誓うものである。
願わくば在天の諸霊安らかに眠られんことを。合掌

平成元年五月吉日(西暦一九八九年)建立
岩上大隊遺族マヌス会

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