由緒

御祭神

幕末から明治維新にかけて国の為に殉じた水戸藩関係の烈士から、
先の大東亜戦争に至るまでの茨城県出身の御英霊 63,496柱

当社が建立するこの桜山は景勝の地であり、古くは「白雲岡」と呼ばれていました。
当初、水戸藩第9代藩主徳川斉昭公(烈公)はこの地に偕楽園を造営しようとしましたが、地形が狭いため、この丘には桜山のゆえんともなる数百の桜を植え、休息所として「一遊亭」を建てて、偕楽園の好文亭と相対させました。北崖下には直径2メートルほどの丸い池を掘って噴水を作り「玉龍泉」と名付けて、これも偕楽園の吐玉泉と対としました。高低差を利用して作られた日本最古の噴水であります。
また当社鳥居前の小さな丘は丸山と呼ばれており、古くは水戸藩第3代藩主徳川光圀公が中国東晋の詩人陶淵明の清節を慕い「丸山淵明堂」を建てて、中に陶淵明の木造を安置しました。その堂の壁には猩々の絵を描かせたので、「猩々堂」と呼ばれたともいいます。
上述のように偕楽園の前景を彩る桜山に茨城縣護國神社は建立しています。

由緒

幕末から明治維新にかけて国のために殉じた水戸藩関係の烈士等1千8百余柱の御霊を御祭神として、明治11年現在の水戸市常磐神社の境内地に、社名を「鎮霊社」として創祀されました。
西南の役、日清・日露戦争等数多の戦に斃れた英霊の合祀がおこなわれ、広く全県下の戦没英霊の御霊を奉斎する神社となります。
しかしながら数々の戦役による戦没英霊は日を追うごとに増加し、創建当時の御社殿では狭隘となっておりました。
昭和14年4月、国の方針により全国各県に一社または二社の護國神社の創建が定められてから、天下の景勝と名高い「偕楽園」の付属地である桜山の現在地に建設が決定されました。
昭和16年11月、常磐神社境内の「鎮霊社」から「茨城縣護國神社」と改称し、盛大な遷座祭を斎行されました。
敗戦により昭和22年8月鎮座地の地名を「桜山神社」と改称しましたが、昭和29年10月「茨城縣護國神社」と復称、現在に至ります。

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